プロコフィエフ:《三つのオレンジへの恋》の為のノート その1

★私のツイッターTL上で、何気にプロコフィエフのオペラについての話題が出ているので
「んーーーーーそういえば、昔「3つのオレンジへの恋」とか、「炎の天使」について、まとめたことがあったなあと思い出しました。

もともと、旧ブログと旧ファンサイト「彼のお部屋」に載せていたものです。記事を書いたのは2007年。もう10年以上前で、当時リンクしてたサイト様も閉鎖されたりとかで
時の流れを感じますが(新しい映像も出てるかもしれません。今はYouTubeでも検索すると、色々あるでしょう)
基本的な内容はいじらず、せっかくなので転記しておきます。久々の「蔵出し鑑賞記」ですね^^;

まずは「3つのオレンジへの恋」から。2007年2月に、イタリアのジェノヴァでヴィノグラードフが魔術師チェリオを歌いました。低ビットレートながらも放送がありましたので、
当時、楽しく聴いて、その後の私の疑問に対してブログで大いに盛り上がったことが、懐かしく思い出されます。

その2は ★こちら
登場人物リストは ★こちら
公演データは ★こちら


《あらすじ&登場人物》

あらすじは、ネットで簡単に読める1)★こちら★を紹介しておきます。、ゴッツィによる原作の寓話劇との比較が参考になります。

もともと「世界一馬鹿馬鹿しい話を」という意気込みで作られたそうですから、ストーリー性は皆無。でも私が何よりもわかりにくかったのは、とにかく登場人物が多くて、関係を掴むのに一苦労。
せめて登場人物のキャラくらいは把握したいなぁ…って思って、リブレットと解説を読みながら、簡易的に★こんなもの★を作ってみました。

三つのオレンジへの恋 登場人物

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《上演状況の経緯》

こちらの旧ブログ記事のコメント欄で話題になった、この作品の言語形態の経緯ですが、簡単にまとめておきます。

ロシア語の台本に作曲がまずあって、作曲者自身シカゴでの初演のためにフランス語訳にして上演。(1926年)
その後、ドイツ語訳や、現地語訳が各地で上演されたが、ロシア語の録音が出たり、フランスでもロシア語上演があったりで、ロシア語優勢だったとのことです。
それが、1982年グラインドボーン音楽祭(嘗てLDで出ていたもの?)でひさしぶりにフランス語上演があり、その後フランス語上演が復活し、今に至るということです。

現在入手できる映像(edcさんが紹介して下さったリヨンの上演⇒edcさんの感想は★こちら★と、2005年のロッテルダムでの上演)は、どちらもフランス語です。グラインドボーンのLDもフランス語ということは、ロシア語の映像は残っていないのかもしれませんね。

CDは、現在は日本語版は廃盤になっているゲルギエフのCDで、ロシア語歌唱が聴けます。ちなみにこのCDではニネッタ姫を、今をときめくアンナ・ネトレプコが歌っているんですね。

リヨンのは、音だけ(CD)も出ていて、これがフランス語版の初めての録音とのことです。

なんでロシアオペラなのに、わざわざフランス語で歌うのよーー;と、上演を知った時からとても不満だったのですが(^^;そういう事情で、現在はフランス語での上演が優勢のようですから、今後ロシア語で聴ける可能性は、ないとは言えませんけど、望み薄かもしれませんね。ちょっと残念。

ブログのコメント欄に、興味深いコメントを頂きましたので、転載しておきます。(斜体部分:by助六さん)

バスティーユでも05年12月にデフロの新演出が出ましたが(06年11-12月に再演)、仏語上演でした。人気がある作品とは思えないけど、05年12月上演はクリスマス用公演で、美味しそうな巨大なオレンジが出てきたりして子供でも楽しめるので、家族連れなんかで大入りで、ちょっと驚きましたね。82年にオペラ・コミックでもやって、露語上演だったような気がするのですが、思い出せません。手元の資料見たら大半仏人歌手なので、仏語上演かな。

私も気に掛かってたので、少し調べてみました。

【オリジナルは確かにロシア語】

ゴッツィの原作を演出家メイエルホリドが、ウラディミール・ソロヴィヨフとコンスタンティン・ヴォガク(って読むのかな。Vogak/Wogak)の協力を得て露語戯曲化し、雑誌に発表していた。プロコフィエフ自身が、それを下敷きにメイエルホリド承認の下に、露語でオペラ台本化した。

プロコフィエフは、シカゴ・オペラ支配人のカンパニーニからオペラ作曲の依頼を受ける以前から、この戯曲のオペラ化を考えていた。

ロシア系仏人論者によると、音楽は明らかにロシア語の音律に従って書かれており、仏語の音律とはずれている部分が多い。プロコフィエフはロシア語で考えて作曲したと思われる。

【シカゴ初演に仏語上演を希望したのは誰で何故なのか】

シカゴ・オペラのカンパニーニ支配人の希望だったのか、プロコフィエフ自身の発案だったのか、これが一次資料がないようで、明記してる本はありませんねぇ。

ただ、プロコ自身は米観衆を意識して、このオペラは前作「賭博者」に比べて、音楽的にも分かりやすく、言葉と音楽の関係もより緩やかなものにと考えていたようです。
そしてプロコは、「露語は米聴衆から最も遠く、露語に音楽的に最も近いのは仏語」と考えていたそうです。

要するに、プロコも「米聴衆に受け容れられやすく、かつ露語から遠くないのは仏語」と納得して、仏語版を作製したと言うことなんでしょう。

【プロコは仏語ができたのか】

プロコの父親は裕福な手工業工場経営者で、音楽家の母親は教育熱心だったそうです。
母親は、パリ出身の16歳の貧しい仏人少女ルイーズ・ロブランを家庭教師兼遊び相手に雇ってます。ルイーズは2年間プロコ家に滞在しますが、露語はまるでダメだったそうで、プロコの仏語上達は早かったようです。ルイーズの後もドイツ人少女が数人家庭教師に雇われてます。ですからプロコは独仏語がかなり自由だったようです。

仏訳台本作製にはヴェラ・ヤナコープロスというブラジル出身の歌手が協力しています。ブラジル生まれ育ちながら、パリとベルリンで勉強し、プロコのピアノ伴奏でリサイタルも開いています。何歳くらいの時にパリに行ったのかとか、それ以上のことは不明ですが、名前からして両親はギリシャとロシア系とかかも知れませんね。

要するに露語上演が理想なのでしょうが、現在でも西欧では仏語上演が多いのは、プロコも仏語版に一応納得してるという口実があるし、合唱団員も仏語の方が負担が少ないとかの実用的理由によるものでしょうかね。

…助六さん、興味深いコメントをありがとうございました!

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